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翔天隊について

 



京都・霊山に建つ坂本龍馬と中岡慎太郎の像。
京都・霊山に建つ坂本龍馬と中岡慎太郎の像。龍馬の海援隊、中岡の陸援隊。
二人の暗殺により、二隊を併せた「翔天隊」が実現することはなく、幻となった。

福岡孝弟(ふくおかたかちか)
海援隊、陸援隊、そして「翔天隊」の構想者である
福岡孝弟(ふくおかたかちか)。

坂本龍馬率いる「海援隊」と中岡慎太郎率いる「陸援隊」の両隊を併せて「翔天隊」と呼ぶ(もしくは、呼ぼうとしていた)。


海援隊、陸援隊の設立、そして「翔天隊」のことを語るとき、福岡孝弟(ふくおかたかちか)のことを抜かしては語れない。というのも、福岡孝弟こそが海援隊と陸援隊の結成に助力し、「翔天隊」の構想者といっても過言ではないからだ。

福岡孝弟は、後藤象二郎と共に幕末期の土佐藩を代表して活躍した人物で、徳川将軍・慶喜に大政奉還の勧告を行ったり、議事制度確立への尽力、五か条の御誓文や政体書の起草にもあたっている(新政府では、文部大輔、司法大輔、元老院議官、文部卿、参議、参事院議長、宮中顧問官、枢密顧問官などを歴任)。

福岡には、土佐藩の外郭軍事組織としての遊撃隊を設立する構想があり、その手記によれば「海外開拓」と「陸上斡旋」に志ある者を募り、それぞれ海陸を補って二つの隊を結成、活動させるというものだった。

そこで福岡は、長崎で「亀山社中」を発足させ、すでに実績をあげていた土佐藩出身の龍馬に着目し、「社中」を土佐藩の外郭組織としての「海援隊」へと移行を図り、同じく土佐藩出身で東奔西走の活躍をしていた中岡慎太郎に「陸援隊」を任せること決めた。

さらに「福岡孝弟手記」に、両隊設立に際し、両隊を総合した時の呼び名を、海援隊に科した五則の規律を綴った後に続いてこう書いている。



「右五則海援隊約規、交法簡易、何ゾ繁砕ヲ得ン。元是、翔天ノ鶴其飛フ所ニ任ス。豈樊中ノ物ナランヤ。今後海陸ヲ合セ号シテ翔天隊ト云ン。亦究竟此意ヲ失スル勿レ」

(我々は天を翔ける鶴、その飛ぶ所に任す。鳥かごの中に入るものではない。今後、海の海援隊だけでなく、陸援隊をあわせて「翔天隊」と言わん。この理想と精神を忘れてはならない)



「翔天隊」の呼び名は、後に2代目海援隊隊長となる長岡謙吉が国許の知人に宛てた書簡の中にも見られることから、「翔天隊」構想は龍馬や中岡慎太郎にも伝えられていたことはほぼ間違いない。

しかし、海援隊とともに並び立つ予定であった陸援隊結成が、幕末期の最前線で東奔西走の活躍をしていた中岡慎太郎のやむを得ない個人的事情により海援隊結成から3か月以上も遅延。

最終的には、慶応3年11月15日(1867年12月10日)の近江屋事件により龍馬と中岡の両隊隊長が暗殺されたことが決定的となり、その後、「翔天隊」の呼び名は完全に消えることとなった。

海援隊と陸援隊、そして両隊の隊長である坂本龍馬と中岡慎太郎が歴史的に有名なのに対し、「翔天隊」の名が今日においても一般的ではないのは、坂本龍馬、中岡慎太郎という両隊の精神的支柱を失ったことにより、実質的な翔天隊としての活動が出来ずに自然消滅してしまったことによるところが大きい。

京都・円山公園にある坂本龍馬・中岡慎太郎像
京都・円山公園にある坂本龍馬・中岡慎太郎像。
中岡慎太郎が、まるで龍馬の従者みたいに作られているのが解せない。


翔天隊 構想 (福岡孝弟手録)

我々は天を翔ける鶴、その飛ぶ所に任す。

鳥かごの中に入るものではない。

今後、海の海援隊だけでなく、陸援隊をあわせて「翔天隊」と言わん。

この理想と精神を忘れてはならない。


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