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中岡慎太郎の青年期




中岡慎太郎・向学の道
中岡慎太郎が島村策吾の塾や田野学館へ通学するときに通った道は
現在「中岡慎太郎・向学の道」と呼ばれている。


「向学の道」:片道90分近くの山道を毎日往復して勉学に励んだという。
「向学の道」:片道90分近くの山道を毎日往復して勉学に励んだという。
中岡の故郷である高知北川村。ゆずの産地として知られる。
中岡の故郷である高知北川村。ゆずの産地として知られる。
安政元年(1854年)、中岡慎太郎17歳。

ペリーが初めて浦賀に来航した翌年であるこの年、高知城下だけであった藩校が郡で初めて設置されると、慎太郎はただちに田野学館に入学。この田野学館に近隣の有志が多く通っており、清岡道之助、その弟・半次郎らをはじめ、多くの有志と交わりを持つことができた。

(清岡道之助は、後に勤皇志士として苛烈な思想に傾倒してゆくようになり、やがては単独で強行的手段を選択。ついに元治元年(1864年)7月、配下・門弟の23名を従えて岩佐番所を本陣として挙兵。その後、鎮圧され斬首されることとなるいわゆる「野根山二十三士殉節」の首領。中岡はその報を聞き、大いに嘆き悲しんだ。この報を聞いた中岡は土佐の同志に「天下挽回再挙なきにあらず、然りながら今暫く時を見るべし。依りて沸騰及び脱藩は甚だ無益なり。涙を抱えて沈黙すべし。他に策なし」という悲痛な自重を求める手紙を送っている)

安政2年(1855年)、田野学館に藩命により、後に土佐勤皇党の首領となる武市瑞山(半平太)が出張してきて、慎太郎も武市に剣術を学んだ。その際、武市瑞山の人格と武術に敬服し、武市が高知に帰った後、あとを追うように慎太郎も高知に出て武市瑞山の道場に入門。

翌年3月には、郷士の小者として土佐を出国、江戸の三大道場のうちの一つである「鏡新明智流」の桃井春蔵の門下生として剣術修行に励んでいる。その後、5月には土佐藩砲術指南の吉村賢次郎の塾にも入門。文武両面ともに様々な分野・学問を吸収する中岡慎太郎の向学心には目を見張るものがある。

安政4年(1857年)、慎太郎が20歳の時、父・小伝次が病気になったという知らせが届き9月に郷里である柏木に帰り、北川郷大庄屋見習となった。その後、父の言葉に従い野友の庄屋・利岡彦次郎の長女であった兼(かね)15歳と結婚する(国事に奔走することになる慎太郎と兼とが安穏とした夫婦生活を送れるはずもなく、二人の間に子供は出来ていない)。

大庄屋見習となった慎太郎は農民のために活躍。安政元年、安政2年に起こった2回の大地震や風水害の被害、疫病の流行で困窮していた村人たちを救うべく次々と抜本的な復興策を打ち出していった。

山林を整理し、木を切ったあとへは必ず植林をさせ、また田畑の開墾をすすめ、高知から作物の優良品種を取り寄せる耕作の指導を行い、同時に飢饉や災害の時のために貯蓄をさせるなどもした。現在、高知県北川村の特産となっている「ゆず」を屋敷のまわりや山すそに植栽するよう推奨したのもこの頃で、塩を買うことができなくとも川魚を採ってくればゆずをかけることにより食べることができるという、飢饉対策の一環だった。

また、飢饉が起きた際は高知城下に出て、直接国老の桐間蔵人に直訴。鬼気迫る陳情を行い、桐間に官倉を開かせ、村民を救済することに成功したという(この時の恩を忘れられない村民たちは、明治に入り北川村小島に中岡の顕彰碑を建てている)。

その後、慎太郎が24歳の時、敬服する武市半平太が土佐勤皇党を立ち上げ、慎太郎もそれに加わるまでの間、庄屋として農民のために尽力し続けた。



中岡慎太郎生家付近に建つ「中岡慎太郎誕生之家」碑。
柏木にある中岡慎太郎生家付近に建つ「中岡慎太郎生誕之家」石碑。


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