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中岡慎太郎について





厳しい顔の中岡慎太郎
幕末志士らしい凛とした顔をした中岡慎太郎。
下の笑顔の写真とのギャップが、中岡の人間的魅力を感じさせる。

微笑む中岡慎太郎
微笑んでいる中岡慎太郎。人柄が表れている。
微笑んでいる写真は幕末志士の写真としては珍しい一枚。

薩長同盟最大の功労者であり「幕末維新の功績は龍馬以上」との声も根強い、信念と正義の人・中岡慎太郎。龍馬と同じ土佐に生まれ、龍馬とともに死んだ盟友・中岡慎太郎。その人間的魅力は坂本龍馬に全く引けを取りません。一般的にはあまり知られていない中岡慎太郎という人物は、どんな生涯を送ったのか。このページでは略歴・プロフィールを紹介し、次ページ以降、中岡慎太郎の足跡を年代ごとに詳しくたどっていきます。

【中岡 慎太郎(なかおか しんたろう)】

天保9年4月13日(1838年5月6日) - 慶応3年11月17日(1867年12月12日)。幕末の代表的志士の一人であり、陸援隊隊長。名は道正。変名に石川清之助(誠之助)などがある。

中岡慎太郎は、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現・高知県安芸郡北川村柏木)に北川郷・大庄屋の長男として生まれる。幼少時より俊才の誉れ高く、18歳のころ、武市瑞山(半平太)の道場に入門し、その後、武市が結成した土佐勤皇党に加盟して、本格的に志士活動を展開し始めた。

文久3年(1863年)、京都での八月十八日の政変後に土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、土佐藩を脱藩し、同年9月、長州藩三田尻(現防府市)に亡命。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となり、三田尻に都落ちしていた三条実美の衛士となるなど、長州をはじめとした各地の志士たちとの重要な連絡役となっていった。

元治元年(1864年)、石川誠之助を名乗り上洛。薩摩藩の島津久光暗殺を画策したが果たせず、また脱藩志士たちを率いて禁門の変、下関戦争を長州側の立場で参戦し、負傷。長州藩への冤罪・雄藩同士の有害無益な対立・志士たちへの弾圧を目の当たりにして、活動方針を単なる尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させる。そして、龍馬を含む誰よりも早く、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷吉之助(西郷隆盛)との会合による薩長同盟締結を倒幕のための第一の悲願として活動し始めた。

有力公家の三条実美とも連絡を取りつつ脱藩志士たちのまとめ役として、薩摩と長州の志士たちの間を飛び回り、海援隊の坂本龍馬や三条の随臣を説得、活動に巻き込んで行き、慶応2年(1866年)1月、京都二本松薩摩藩邸において薩長同盟(薩長盟約)という歴史的転換点を結実させる事に成功した。

その後、薩土同盟についても同様に東奔西走し、薩摩藩と土佐藩との間で、倒幕・王政復古実現のための薩土盟約が締結される。この盟約は長州藩の隣の安芸藩を加えた薩土芸三藩約定書に拡大発展。土佐藩を戊辰戦争において薩摩・長州・肥前と並ぶ倒幕の主要勢力たらしめ、その結果として土佐藩出身者を薩摩、長州、肥前出身者同様に幕末・明治をリードする主要政治勢力たらしめた。

その後、長州の奇兵隊を参考に、自身を隊長とする陸援隊を京都に組織。また、この頃に討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著している。

慶応3年(1867年)12月、京都・近江屋にて坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され、瀕死の重傷を負う(近江屋事件)。龍馬は即死状態であったが、慎太郎は2日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について谷干城などに詳細に語った後に絶命した。享年30であった。



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